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あたたかな眼ざしこそ【理解の光と進化】
あなたは今、青い海が見える、岸辺に腰かけています。
足元の水底は透明で、白い砂がキラキラ光っているのが見える。
そして海、果てしのない海。
前世から几帳面に生きてきたあなたにとって、どうやったら日々の生活の中で、常にゆとりを見出すことができるかが、テーマでありました。
生まれてくる前は、常に神様や仏様とともにあり、四六時中その喜びの中で生きておりまして、その気持ちを忘れまいと、固く決意して生まれてくるのですが、いざこの世に生まれますと、前世からの几帳面な性格だけが残り、ともすれば、単調な日々が続く。
あの世にいた時は、ただもう仏様のお話しどころではなく、その仏様の後ろに、たなびくように広がるオーラに夢中になりまして、オーラが点滅したり、揺らいだりして、それはもう、ただそれを見るだけで、喜びに包まれておりました。
しかしこの世に生まれますと、あくまで生活のベースは単調でありまして、それは仕事についたとしても同じことで、来る日も来る日も、忍耐強く、決められた作業をこなさなければなりません。
しかし、本来のあなたはもっと自由であり、気品にあふれ、あの大空を羽ばたきながら飛んでいく白鳥のように、自由自在に気持ちの中では、今でも泳いでいます。
この観点から見ますと、日々の生活が面白いとは到底思えず、やはり、信仰の世界に入り、自由自在な境地に入らなければ、生きることは単調になってしまいます。
もし年々、神仏を身近に感じることができたなら、毎年毎年来る、季節の訪れも、年とともに随分と奥行きと広がりが感じられ、艶やかな心をもって迎えることができましょう。
すなわち、毎年咲く桜の花も、去年とはまた違った風情で、楽しむことができます。
もしそこに、「ああ、自分は年老いたな。」という、ため息だけが聞こえるとすれば、いつの間にか、自由自在な魂の世界を忘れた証拠であり、
本当に大切なのは、心の感性と申しましょうか
広がり、伸びやかさ、あたたかさ、気付き。
ですからあなたにとっては、現実世界のともすれば、与えられただけお返しするという、ギスギスした人間関係は苦手で、思い切って愛情を降り注ぎたい、そんな衝動にとらわれるのです。
友人というものを、その枠を超えて、あたかも家族のように接することができたら、どれだけ楽だろうか。
あの人にはこうしてあげたのに、ちっとも私にはしてくれないという、計算ずくめの人間関係は、どうしても受け入れることができません。
それで仕事をしていましても、ついついそうした計算高い相手の行為が感じられますと、はっきり言いまして、あなたは潜在意識の中でその関係をプツリと断ち切ってしまいます。
そして時にはこう思います。
「もしビジネスに長けている人であったら、こんなことは気にもしないはずなのに、どうしてあの人のあの冷たさが気になるのだろう、自分はビジネスには不向きではあるまいか」
そんな風に思ってしまいます。
例えていうなら、優雅で、落ち着いた、幅があって奥行きがある人間関係を七色としますと、計算ずくめの世界は白黒二色で、そのどこに魅力があるのか。
そうです。
今までは持ち前の快活さと自由さで、たとえ相手が計算ずくめの人間であったとしても、自分だけはその世界にどっぷりはまりたくないと思い、優雅なユリの花のように、沢山の愛情を振りまいてこられました。
最もそれが通用する相手もいますし、もちろん通用しない人間もいます。
そんなあなたを、「甘いわ」と見ている人も、もちろんいるでしょう。
確かに成功者の大半は、冷たい人間性を持ち、その計算高さによって次々と出世します。
しかしそうした社会がいつまでも続く保証はありません。
ハッキリ言いますと、あなたの魂はとても快活でありますが、冷たくてギスギスした人に対して、頑固なまでの嫌悪感を抱いております。
その白黒二色の計算ずくめの世界と、あなたが理想とする豊かで、愛情あふれる世界の二大対立。
何度、そのはざまであなたは、苦しんだことでしょうか。
さて今年は、この天真爛漫な持って生まれたあなたの、もう一段カベを乗り越えて、大きく視野を広げ、次元を広げる素晴らしい一年となります。
あのきれいな、3月から4月にかけて、咲き誇る桜。
その美しさは、沢山の人がそれを愛で、桜自身もそれに応えるかのように、最後の最後まで、風に飛ばされないように、渾身の力を込めて木の枝につかまり、最後の瞬間を迎えます。
しかし忘れてはいけません。
その桜の木の下には、美しいピンク色の花どころか、一生花など咲かすことができない雑草が、たくさんいるということを。
今年は、桜の花だけに焦点を当てるのではなく、足元の雑草も視野においたうえで、大きな視野で、世界と人々を眺めていきましょう。
神はどうして、あの美しい桜と、名も無き雑草を共存させ給うのか。
花を咲かせない人は、決していじわるで花を咲かさないわけではなく、
咲くことができません。それを哀しいととらえるか、残念ととらえるか。
でも雑草は、確かにたくましく生きています。
雑草には、花を咲かすゆとりもなければ、能力もありません。
一生、土中のばい菌と闘いながら、自分の生存権を広げることに躍起になり、従って、時おり頭上を眺めては桜を見て、
「いいなあ…」
一瞬はそう思いますが、まなじりをまた地面に落とし、せっせと日々の生活にはげむ。
雑草は、美しさや、芸術性や人から賛美される喜びは、無縁のものです。
彼らは、日々土中のばい菌と闘い、時には人に踏まれ、動物に刈り取られ、生きるか死ぬかの、その瀬戸際で日々生活しています。
どうやったら水の無いところでも入ることができるか。どうやったら少しでも陽の光を、いただくことができるか。
こうやったら、もっと上手に生きられる。
必死で一生かけて、そのことを学んでいます。
花を咲かすのが当り前の桜から見たら、もちろんそんな生き方は論外でしょう。
そんなことに一生労力をかけて、自分の命を費やす価値がどれほどあるのか。
何の価値があるのか
花も咲かせないのに
雑草は、そうやって日々日々どうすればいいのか、どうやったら有利か、どうやったら少しでも長生きできるか、そんなことを考えながら、やがては大自然の掟の中で世代交代をしていきます。
やがて彼らの死骸が、桜の木によって吸収されて、あの美しいピンク色の花びらを咲かせることにつながっていく。
雑草は、自分の働きが桜に貢献しているなど、生きている間は、到底考えもしなかったはずで、これは世の中も全く同じ構図でできています。
世の中には人よりも短く働いて、ずる賢くお金を貯めようとする輩が大半で、しかし、何年も何万回も生まれかわると、そんなことは、人間の魂にとってふさわしいものではないと知っていますから、私たちはその生き方を嫌悪します。
彼らは、一途に、必死さを学んでいる。
花と無縁な、それこそ白黒二色の世界の中で、自分の身体を切り刻み、時には仲間同士が命を奪い合っている。
足を引っ張ったり、告げ口をくり返したりする。
それほど、生きることが大変であることを、彼らは正面から学んでいます。
それがいいか悪いかではなく、それ以外の生き方ができません。
ゆえに、その存在を批判しても、説教して変えさせようとしても、大半は徒労に終わります。
私たちの進化は、例えそのような人物に出会ったとしても、どれだけゆとりをもって、あたたかい眼ざしで見てあげることができるかどうか。
彼らと競ったり嫌悪するのではなく、あたたかい眼ざしで、ただひたすら見つめる。
そしてその一方で、神を理解し、生き生きと生きようとし、計算ずくの人間関係を乗り越えて、もっとあたたかい人間関係をつくろうとする、
己に与えられたこの心の衝動こそ、人の宝であり花であり、自然にそう思える自分に、深く感謝しなければなりません。
今年は、嫌悪していた人々に、あなたは理解の光を投げかけます。
愛する必要も、許す必要もありません。
理解すればよいのです。
この理解することによって、あなたの人間性の器はさらに広がり、確固としたものとなり、あの大きな大木が、桜も許容し、雑草も許容する。
あなたは一個の巨大な命の存在そのものとなりましょう。
ハー
オーム
スパー
END