水輪

水輪の理念とビジョン

いのちの森水輪の理念とビジョン

医療・教育・文化・芸術・科学・経済・農・衣食住・遊・死を貫くホリティック(全宇宙観的)な
意識性と生活空間の創造は、
次世代への継承性を意義あるものとして高めていくことができる。

第1部 こころを高める人生を 共にひらき生きる

宇宙意識に目覚める

現代社会を生きる多くの人々は通常、社会の常識や理性にしたがって判断したり、分析したり、思考したりします。そして、主には個人や家族、その他自分を取り巻く一部の特定の人々との豊かさや幸福を追求しがちです。地球や宇宙、全人類のためを思って行動するということよりも、自分にとってどうであるのかを直接の動機として行動しています。これを個の意識と呼ぶことにします。
個の意識に対して、宇宙意識とは、その発想を逆転させる意識です。それは、個人の利益の追求、選択、理性的・感性的判断をこえたところにある、もっと大いなる生命意志のもとに、自らをゆだねる、という発想です。この意識は、顕在意識から来るものではなく、もっと深いところ(いのちの根源)から来るもので、それゆえにもっとパワフルな意識です。この意識の源とは、心臓を動かしたり、呼吸をしたりしていることが自分の意志や選択を超えていることと同じです。一体何が私たちをそうさせているのか、個人の意志を超えて私たちを存在せしめているもの、大いなるいのちとしか言葉では表現できない意識のことです。
それは、誰もが持っています。ただ、この意識が顕在化される、すなわち、普通に生活していても、はっきり認識できるようになるためには多少の転換のプロセスが必要とされます。
個を超えた意識(いのち)に目覚め、常にそれと共にあるとき、個人的な苦悩やネガティヴな思いは消滅します。そもそも人間の存在の生命本質とは、個人として他者とは無関係に存在する個人(いのち)ではなく、宇宙生命という全体のつながりの中の個人にほかなりません。宇宙生命とつながりが無く、それ単独で存在するというものはなく、生きとし生ける全てが相互依存性の中の相互自立として、それが存在しています。
このことを真に自覚しているならば、利己主義ということは生じません。利己主義に走ったならば、それは自己をも他者をも不幸へと導く結果を生むことが自明であるからです。

生かされている

宇宙生命全体の中の個人生命であること、生かされているということ、自分と全体との幸・不幸は一体であることなどを真に自覚していたら、全体と個体との間のエネルギーがたいへんスムーズに流れている状態です。清流を思い描いてください。清らかな水は、それをせき止めるものが無ければ、滞ることなく清らかなままでどんどん流れていきます。しかし、何かが流れを妨げたならば、そこに澱みができ、そこに流れてくる水はどんなに清らかであっても必ず濁ってしまいます。
東洋医学では、身体をこのことに置き換え、つまり水の流れを気の流れにかえて病気というものをとらえますが、いのち(意識、心)もまた同じです。己を優先させる考え、エゴというものが宇宙(生命)全体の意識の流れをせき止めます。全体から切り離され、利己的になることはいのちに澱みをつくることと同じです。
澱みの中の濁った水とは、ネガティヴな意識です。端的にいえば、ネガティヴな意識とは利己主義から生じるということです。そしてネガティヴ性は全ての病気の根源となります。宇宙生命意識に目覚める、とは本来のいのちの働きの心に立ち返るということです。本来の心とは明るくポジティヴ(健康的)であるということです。それは元気とは元の気であり、本来の気とは決して病んでいるものではないことを意味することと同じです。いのちの働きの心が本性、つまり全体の中の個人としての「私」である、ということを自覚し(悟って)いるならば、心が病む、私利私欲に走ったり、ネガティヴな思いに取りつかれることは本来ない、ということでしょうか。 宇宙生命と調和した、正しい生命意識(こころ)を持っていれば、ネガティヴ性から解放されていきます。

心がどう感じるかが判断の基準

これまでの私たちの判断や行動の基準は何だったでしょうか。それは、社会常識や観念といった理性、頭の中で理性に照らし合わせてどうであるのか、といったことでした。それが、現実性があるのか、利害関係はどうなるのか、といった物質的な観点からの判断も含まれます。
そういった基準からの判断をやめ、静かに瞑想し(宇宙生命意識と一体になり)、その選択、判断を下すことで心が明るく、軽くなるのか、あるいは逆であるのか、心の反応を基準とする、ということでしょうか。
良いことをしたときに、心が明るくなることは子供も知っています。ハートは、宇宙意識に直結しています。誰もが正しい判断や答えをすでに知っているのです。正しいかどうかは、その選択によって全体がよい方向にいくかどうか。心がいつも研ぎ澄まされていれば、心はすぐにそれに反応し
ます。全体の幸福と個人の幸福が矛盾するということは、本来はないことなのです。
これまでは、ハートがどう感じようとも、理性の判断が優先されてきました。しかし、これからはハートは意思決定のセンサーです。選択の基準を頭脳(思考)からいのちの働きの心(ハート)の感覚へと移行することにより、社会総体のネガティヴな意識は変革されるでしょう。

分離の時代の終わり

これまでの社会常識とはこの発想とは逆のものでした。すべては競争であり、正直者がばかを見、みんなのために働くことは損であるかのように考えられてきました。本音と建前があり、本音とは利己主義に他なりませんでした。しかし、この考え方は今日にいたって、限界が見えてきました。破滅寸前の病んだ地球の姿(生命)とはこのことの象徴です。地球生命全体をかえりみることなく、自分・人間の利益だけを追及した結果、幸福になるどころか、地球存続すら危うくなってしまいました。
人々は今までの考えの誤りに気づきはじめ、競争ではなく、共に協力しあわなければ地球も企業も人間もは存続しえなくなって参りました。今、社会でもっともポイントとなっていることは、共存、共栄、ネットワークです。今までは、個人が個人として分断され、自分、自分と自分の利益を追求してきた結果、他との分離の中を生きてきました。それが、貧困・戦争などを生み出してきました。
心がどう感じるかということよりも現実、物質的な現実、生産性、効率性などが重視され、その結果、物質力は繁栄しましたが、人々の心は幸福にはなりませんでした。なぜなら、心の本質とは、深いところですべての存在はつながっている、つまり一なるもの(ワンネス・oneness)であるがゆえに、分離・分断を好まないからです。回りはお構いなしの、自分だけ・自国だけの幸福とはそもそもありえないことだからです。人間の心にとって、人と人の間(あわい)に、国と国との間(あわい)また人と国の間(あわい)になんのきずなも確認できないことほど大きな苦痛はありません。回りの人間から拒絶されたとき、人間は死・戦争すらも選択します。人間存在のいのち本質に反するからです。

統合の時代に向けて

しかし、これまでの、宇宙生命分離・分断の時代が間違っており、悪であったと言うことはできません。この宇宙(いのち)の中に不必要なものは何一つ存在しないからです。分離することにより、専門化がすすみ、物事に対するミクロ的視野を深めることが出来ました。また、心の成長ということに関していえば、分離・分断の時代とは、一つの試練の時代でもありました。 回りの環境が分離・分断であったとしても、常にいのちの働きである心を見つめ存在の原点に帰ることを怠ることがなかったならば、必ず自らの心のうちに宇宙的なもの(偉大ないのちの無限力=慈愛)を内在させることが出来るでしょう。外側に永遠不変の安定を追い求めるよりも、自らのうちに確かな安らぎが内在していることを悟るでしょう。どんな環境の下にあっても、個を超えるもっと大きなもの(宇宙生命の存在)を信じ、そこから離れることがなかったかどうかの試練の時代でもあったのです。
外側のものに心を奪われ、物質主義に走り、自らのうちにある大いなるいのちとのきずなを信じることが出来なかったならば、多いに苦悩する時代がやってきます。様々な新種のウイルスの出現、天災、深刻な環境破壊や先の見えない経済など、社会不安の波が押し寄せてきています。しかし試練の時代を通し、これからは、宇宙のエネルギーが徐々に変化し、統合の時代、新しい霊性を迎える時代が開かれてくるでしょう。その前に、分離の時代の総決算として、浄化の時を迎えます。古い価値観は一掃されてゆくでしょう。浄化が終了して初めて新しいものに移行することが出来るからです。そして新しい時代は、光に満ちたものです。なぜなら心(いのち)は統合していくときには喜びを感じるからです。
この意識(こころ)から宇宙の意識(こころ)にスムーズに転換できるかどうかは、その人がこれまで、どのような動機(こころ)で生きてきたかにかかっています。一言でいえば、純粋であったかどうかということです。外側のものに依存することなく、自分の純粋なハートを信じ、全体の幸福を想い、純粋な心を成長させてきたかどうかが問われます。宇宙生命は無限の慈愛によって成立しています。現象的にはどのようなことが起ころうとも、すべては宇宙の進化の中で生じてきた必然性です。それを学びとして純粋な心を信じ、ゆだね、行動する。それが全てです。
はじめ一つであったものがばらばらに別れて旅をしてまた一つに戻ってくる。それははじめの一つよりももっと偉大な一つ(oneness)を創る。新しい霊性の文明のはじまりです。

新時代といのちの森「水輪」という空間

意識変革とは宇宙生命意識を自分の中に顕在化させることです。宇宙と人間の心が調和するということです。東洋医学では気の流れの停滞により病気になると考えられていますが、意識(心)も同じです。人間の意識が自己の利益のみを優先とすることが幸福につながるという思想を信じることによって宇宙と分断され、宇宙との調和が乱れ、ネガティブになります。しかし、共存の中にこそ幸福があるという宇宙の意識と調和することによって、ネガティヴ性は払拭されるのです。このことは、宗教でも哲学でもイデオロギーでもありません。健康であることが人間本来の姿であり、それを願うことが宗教や思想でないことと同じで、宇宙意識も人間が思考によって創りだした概念ではないからです。
宇宙意識のこころとは、いのちの働きの本性であり、誰もが内在させています。それに目覚めるために、誰かの教えに従う、とか何か特定のテクニックがあるというものではありません。けれどもそれに目覚める手掛かりとしての環境をつくりだしたり、支えあったりすることは可能なことです。なぜなら、意識は共振するからです。この意識に目覚める人たちが結びつけば結びつくだけ、強い意識の波動となり影響力を持ちます。今までの常識が一瞬にして変わることも可能です。
いのちの森「水輪」は、一つにあらゆる分野で純粋な生命意識の下に活動されてきた人々との出会いの場であり、ネットワークの基点です。また、それぞれが、宇宙生命と調和する意識を持ち、新しい意識に基づく医療、教育、文化、芸術、科学、経済、衣・食・住、等のライフスタイルを創造し、発信していく空間です。過渡期にあっては、宇宙のいのちと調和するライフスタイルを創造しながら、宇宙生命意識を顕在化させるプロセスを共にしていく空間でもあります。

自然から学ぶ

いのちの森「水輪」は標高1千メートルにあります。この標高の波動は、ちょうど母の胎内と同じ環境であるといわれています。原初(いのち)とのつながりを思い起こさせる癒しの波動に満たされています。また、水輪の建物の建材はヒノキが中心に使われており、自然の気を人工物により遮
断することなく室内でも体感できるようになっており、リラックスと瞑想には大変適した環境です。
静けさにも音があり、月の光りにも音があることなど、都会では忘れがちな感じる心を自然のいのちは呼び起こしてくれます。自然は大きな癒しの力を持っています。様々な気づきを与え、宇宙のいのちという全体性を見せてくれます。宇宙意識とは自然の意識です。自然の波動を感じることによって、その意識を思い起こし、心はきっと何かを発見するでしょう。自然と共にあることがいのちの森「水輪」の大きな原点です。
また、1千メートルという標高はハーブの生育に大変適しており、周囲はその宝庫です。ハーブの栽培や、ハーブを使った料理、その他植物や自然環境の持つ癒しの力と恩恵を最大限に活用してゆくこともこれからの課題です。これまでの食生活を見直し、質素であるけれども真に心と体を健康にしてくれる身近な野草や木の実などを活用していきたいと考えています。

ホリスティックメディテーション~すべてが瞑想(気づき)~

閑居し、瞑想し、托鉢し、修行に打ち込んでいればよかったという昔とは異なり、私たちのおかれている現代社会はあまりにも複雑な問題を抱えています。座って瞑想している一方で、その地盤である地球そのものの存続さえ危ぶまれているのが現実です。また、いにしえの聖者の心洗われる言葉や生き方にふれて感動したとしても、私たちは人生の大半の時間を仕事に費やしています。会社に行ったとき、そこにはそこを動かしている論理があり、いわゆる高尚な教えとは異なる現実の世界です。心や人間の本質論を言っても、会社でそれは通らない、というのが現実です。
瞑想は、現実から遊離し、夢を見ることではありません。1日1時間、静かに座り、心を静めている時間よりも、後の23時間をどのように生きているかのほうが大きな問題です。静かに座っている自分、精神的な教えに触れているときの自分と、会社にいるときの自分、衣・食・住を営んでいるときの自分とは分離しがちです。高尚な教えに感動した次の瞬間、もう現実生活のことで誰かに腹を立てているということが起こりがちです。
あるいは、精神だけが瞑想していても、血液や肉体を作る水や食物についてはまったく無頓着であったとするなら、よい瞑想の結果が出せません。今日において、普段口にするものに全く無頓着であったならば、知らずしらずのうちに身体が蝕まれていくでしょう。
また、ビジネスの世界で私利私欲だけを追及しながら、ポジティブな思考、明るい想念を持とうとすることなど本質的には不可能なことです。精神だけが高尚なものに触れたとしても、日常生活の中に根付かせることが出来なければ意味がありません。現代社会という環境の中では、両者の間に大きなギャップがあり大変に困難な状況です。
かつての禅寺のように、座っているだけでなく、仕事をすること、物事を生み出すこと、食べること、すべてを瞑想、つまり生命から生まれる気づきとして、仕事も生活も生業(なりわい)もつなげてゆけるものにしていくことが大切です。社会のみんなが豊かになるための生産物やサービスを提供していく中で、共に働くもの同士がお互いを高め、気づきを得、働くことによって個性が輝き、自分の無限のいのちの力に気付き、創造性を発揮し、心身共に豊かになっていけるような職場がつくられていくと思います。もちろん、ひとりでそれを実践することは大変困難なことです。しかし、同じことを願う人々が集まって支えあってゆけば、少しずつそれは実現へと向かってゆくでしょう。
本当の瞑想、覚醒とは精神だけの話ではなく、生きているこの場所にいのちの輝きを貫くことであると考えます。宇宙意識に本当に目覚めるということは、物心両面にわたるそのいのちの意識を全体の進化と豊かさのために結晶化し、還元していける社会性のあるものであることが本質でしょう。ホリスティック(Holistic)という言葉は、ギリシャ語で「全体性」を意味する「ホロス(holos)」を語源としています。 そこから派生した言葉には、whole(全体)、heal(癒す)、health(健康)、holy(聖なる)…などがあり、健康-health-という言葉自体が、もともと「全体」に根ざしています。ホリスティックの字義は、もともと「ホーリズム(holism)的な」という形容詞として生まれた、一般に「全体論」と訳されている哲学用語ですが、これは、ジャン・クリスチャン・スマッツという思想家が、1926年に発表した「ホーリズムと進化(Holism and Evolution)」という著作の中で、初めて使った造語です。
ホーリズムとは、「全体とは部分の総和以上のなにかである」という表現に代表される還元主義に対立する考え方で、臓器や細胞などといった部分に分けて研究し、それを総合したとしても、人間全体をとらえることはできない。 現実の基本的有機体である全体は、それを構成する部分の総和よりも存在価値があるという理論であり、同時に、一固体は孤立に存在するのではなく、それをとりまく環境すべてと繋がっていると考え方です。
現在、「ホリスティック」は、「全体」、「関連」、「つながり」、「バランス」といった意味をすべて包含した言葉として解釈されていますが、的確な訳語がないため、そのまま「ホリスティック」という言葉が使われています。しかし、意味する内容は決して新しく輸入された考えではなく、もともと東洋に根づいていた包括的な考え方に近いものといえます。調和・秩序・バランスを内包しています。

宇宙意識のネットワーク

自己の利益の追求のみを動機として提供される生産物やサービスと、他の幸福を動機として提供されるそれらとは自然に違いが生じてきます。宇宙意識の下に各界・各分野で活動を行ってこられた方々との衣・食・住・遊・死、医療(末期患者のターミナル・ケアを含む)、教育、文化、芸術、科
学、ビジネス、政治、経済等のネットワークを構築し、本当に地球全体が豊かになっていける社会システムの発信地の一つとなっていくことを考えています。

21世紀に向けていのちの森「水輪」の果たす役割とビジョン

46年前、重い障害を持つ娘の早穂理に与えられた苦悩を縁として、この飯綱の地に自らの生活全てを瞑想として生きたいと願い、娘の名前をとり「早穂理庵」とつけた。ここでの質素な生活空間に一人訪ね、二人訪ねして40年の歳月の中で作られてきた人々との語らいや学びを通し、私たちもまた多くの学びをさせていただいてきました。
この大自然の持つ癒しのエネルギーは私たちの今日を作ってくれました。また多くの人々の癒しの場としての役割も果たしてきたように思います。水輪はこの癒しと気づきを通して自己を深め、自己に気づき、自己に安らうことをめざして歩んでいます。その中で医療、教育、文化、芸術、科学、産業、経済に至るまで、ホリスティックな発想と学びが大切であると感じてきました。また社会全体が西洋的、科学的、デジタル化が進み、人間およびいのちある生物にとり、生活感の喪失からくる疎外感が生み出されています。機械化により、人と人とのつながりが分断される時代にも入っており、東洋と西洋、科学と哲学、男と女、アナログとデジタルなどの融合と調和が必要とされます。医学においても研究が進めば、病気とはクスリにより治るのではなく、生物自身のもつ自己治癒力や免疫力に精神が深く関係していることが明らかです。
一方携帯電話の普及と平行して伝書バトの行方不明の数が増え続け、渡り鳥の帰巣本能も変わりつつあることが報告されるなど、便利イコール健康・安全ではないことも明らかになりつつあります。水輪ではこのホリスティックな視点に立つ宇宙観、生命観、仕事観、自然観、人間観、教育観などを学び深め実践実現していきます。
まず、衣食住において直接の生産や目に見える形でのネットワーク作りを行い、いのちの森「水輪」会員とともに、それぞれの情報を繋ぐシステムを現在研究しています。また、医療と教育と食に関する分野での展開も具体化していきたいと考えています。いのちを復活させる長期療養や青少年のカウンセリングステイの受け入れなどもスタッフ体制の確立と絡めて充実させています。
現在メンバーを中心としてこの活動の一端を担って戴ける方をホリスティック・フラクターとして参加を求めています。教育・文化・芸術・科学・経済・農業・衣食住遊など人間の苦と癒し、めざめを起こす自己の成長と気づきを通して自己の確立をめざしていく哲学を打ち立て深めていく必要があります。また、生きて死ぬ存在である生命が未来に向かう世代にいのち輝く哲学の継承の視点がいかに大切であり必要なことかは、現在の地球の現況を見れば明らかなことでありましょう。志高く生きる人々と、明るい地球の未来を共に創造していきたいと願っています。ぜひ多くの方々のネットワークを通していのちの森「水輪」の理念とビジョンを理解して頂き21世紀を担う知的創造空間としてのいのちの森「水輪」(実践の場)を創っていけたらと思っております。

第2部 真の経営とは何かーを考える いのちの営(いとなみ)の経(みち)を深める

・利潤本位の発想の限界
・物質主義という問題
・モノから心の時代へ
・動機が最重要
・心の結びつきを求める人々
・経営とはいのちの営みの経
 ~経営者は瞑想家でもある~
・真心の実践としての経営

利潤本位の発想の限界

人間や地球(環境)に優しい商品というものが登場し、注目を浴びています。内実はともあれ、そのようなフレーズをうたうだけで、人々はその商品に対して良いイメージを抱きます。宣伝文句だけでなく、真にこのような視点で生産された商品であるならば、消費者はどんなに心待ちにしていたことでしょう。
従来の商品とは、大半が、企業の利潤を動機とするものでした。それを手にする人間よりも、とにかくそれを売りさばくことで企業が潤えばよいという発想でありました。自社が利益を上げるためには、どうすればよいのか。すべてはここから始まっています。しかし、この原理では、安いコストで生産したモノが出来るだけ高く、多く売れればよい、競争に勝たねばならない、等々の極めて現実的な発想を社会全体が取らざるを得ません。

物質主義という問題

企業でも、社会でも、それを成立せしめているもの、その根幹にあるものは理念です。目に見えない理念が、企業や社会の形態、あるいは一つの商品となってこの世に物質となって現象しています。たとえば、添加物のいっぱい入った食品も、薬漬けの病院も、そのような現象として現れる以前に、何らかの理念があり、その理念がこのような形になって現れています。
それでは、現代社会に共通している理念、哲学とはどんなものでしょうか。資本主義、社会主義という社会体制の問題よりも、心が不在である物質主義、プラグマティズムというものの考え方ではないでしょうか。事象の捉え方の問題です。目に見えるもの、五感で認識できるものしか認めない、という考え方です。科学も、社会常識もそれらは信用できて、思想やイデオロギーとは呼べないもののように見えますが、やはり一つの考え方の上に成り立っているものです。
物質主義とは、そこに存在するモノはモノでしかない、そしてモノしか認めない、という考え方です。この発想により、とりあえず、目に見える結果が良ければよい、となります。見た目が良ければよい、美味しいと感じればよい、痛みを抑えられればよいなどと言うその場限りのことだけが重要で、因果関係、つまりそういうことを続けていった結果どうなるか、ということはあまり重要でないという発想です。
物質主義の誤りとは、いのちの働きである霊性(心)という存在を全く無視しているところにあります。心は目には見えません。環境を汚したとしても、地球が言葉で文句を言うわけではありません。恐怖に泣き叫ぶ生き物を殺して、肉を取ることも、人をだましてお金を奪うことも可能です。心というものを無視して、物質的に潤うことは現象的にはいくらでも可能であったのです。心よりもモノが優先されて来たわけです。
けれども心というものは目には見えないだけで、実在するものです。また、人間や動物だけでなく、植物のいのちや地球のいのちにも全て心(意識)があります。そして、いのちの根源からの意識は物質化(現象化)します。長年に渡って潜在下に蓄積されてきた意識は、力を持ち、やがては表に現れます。物言わぬ者たちの意識や願いは、いつの日か必ずこの世に現れます。人間が、その場限りの利益を考え、全体を顧みないということを繰り返してきたならば、最終的にはそのことによるネガティブ性は必ずそれを生み出したもののもとに返ってきます。

モノから心の時代へ

今日の日本は、物質的には大変豊かになりました。モノは氾濫しています。さらに追い打ちをかけるように、海外から今までとは比べものにならないくらい安い価格で商品が輸入され、価格破壊が進行しています。
心、人間性といったものを省みることなく、モノだけを生産していれば良いという時代は終わりを告げようとしています。物質的に豊かであることは必要なことではありましたが、それだけでは人は幸福になりませんでした。今、人々が最も求めていることは心が幸福である事ではないでしょうか。なぜなら、いのちの働きの根源から出た心というものがあってこそ初めて人が人として潤うことが出来るからです。
心は目には見えませんが、物質の根幹にあるのはいのちの働きの心なのです。では、心とは何なのでしょうか。それは、目には見えませんが確かに存在するもので、深いいのちの働きから出てくる心とは波動のエネルギーです。それはちょうど電波は目に見えなくても、テレビ、ラジオの受信機を通じてその存在を誰もが確認しうることと同じです。

動機が最重要

人気のあるお店、潤い、発展性のある会社となるための条件とは、いうまでもなく供給するものがどれくらい好んで受け入れてもらえるか、ということにあります。商品やサービスを媒介に社会のコミュニケーションは成り立ちますが、微細な観点からいえばそれは波動(いのち・心)の交流でもあります。その商品を受け取ることによって心が軽く、明るくなることが出来るならば人々はそれを好んで求めるでしょう。
一つの商品とはいのちの働きから生まれる心(波動)の現れ(働き)です。それを開発したり、そのサービスを供給しようという人の心の結晶です。心という目に見えないものが、物質という形あるものとなって、現実のものとなるとき、その思いはもっと強くなるということです。それは内
容の善悪を問いませんから、本来のいのちに輝く良い思いが物質化したときは良い思いがもっと強くなり、いのちに逆らう悪い思いが物質化したときは悪い思いがもっと強くなります。
何事も動機が最も大切です。この商品やサービスを手にする人が本当に豊かになって欲しいと願う心が動機となった経営であるのか、それとも自社がより多くの利益を得るためにはどうすればよいかをまず第一に発想するのか、「理想はわかる。しかし現実はそれではやっていけない。」という言葉は大変に耳にしてきました。しかし、今は発想が逆転して、本質が明らかになって行く時代です。前者は心優先、後者はモノ優先の発想です。何よりも人々が本来の心の幸福に価値機軸を置き始めたからです。
心優先の経営とは真心の経営であるということです。商品やサービスというものを通じて、真心を伝えてゆくことです。真心は必ず通じ、また共振します。真心と呼ばれる心の状態と利己的な金銭勘定に終始している心の状態とではどちらが人間は幸福を感じるか、今後、人間はますますこの
こと、幸福であるか、よろこびを感じるかどうかを基準に選択をして行くような気がします。また、何よりも、真心を動機とした経営であるならば、その理念の元に働く人々もまた豊かになって行きます。真心の磁場が形成され、共振し、真の豊かさが広がって行くでしょう。真心という
いのちの働きの動機のもとに提供される商品であるならば、ともに豊かになって行くことが出来るのです。

心の結びつきを求める人々

まだ、このようなことを言っても、理想ばかりが先走りしているかのような印象を持たれる方もいらっしゃるかもしれません。このような社会の、というか人類の意識の方向性に大変敏感であるのが通信関連事業です。
インターネットは大変な関心を呼び起こしています。インターネットの注目すべき点は、基本的には企業も機関も個人も無料で情報を公開しているという点にあります。時間と労力をかけてホームページを作成しても、お金にはならないというよりも出資であるわけです。また、インターネット等に必要なソフトウェアも無料(フリーウェア)か、使ってみて良かったら制作者にお金を送る(シェアウェア)という形態が多くあります。さらに、企業間でさえも、自社の利益だけを追求するだけでは生き残ることが出来ず、採算よりもネットワークが最重要となって来ました。自己の利益やモノを得ることよりも、与えあって、結びついていくことに人々は価値を見いだし始めたのではないでしょうか。

経営とはいのちの営(いとなみ)の経(みち) 経営者は瞑想家でもあるということ

真心を動機とすればよい、とは大変単純なことです。しかし、多くの人は真心で生きたなら、損をするかのように考えがちです。さしあたっての現実性、採算性、効率性よりもハートがどう感じるかを行動の基準とする事は、実際には勇気のいることです。私たちは、このこととは逆のことを教えられ、競争社会の中で生きてきました。私は真心で生きる主義です、などという子供よりも勉強が出来る子供の方が社会では歓迎されます。真心と言うことは、誰に教えられなくても子供の頃から知っています。しかし、大きくなるにつれ、それを忘れ、それから離れることの方が普通で、現実的なこととなってしまいました。
けれども、真心という心は人間の思考によって生み出された何かの概念とは本質的に異なる心の状態です。真の心、つまりそれが心、そして人間の本質であるということです。真心の実践としての経営とは生命(いのち)の営(いとな)みの経(みち)であり、古代日本には惟神(かんながら)の道という概念がありました。古代の日本人にとっては、生きることそのものが神に通じる道でした。本来の経営もまた然り、真心の実践の道であって、私利私欲に走り、お金儲けをする道では決してないはずです。経営とは生命(いのち)の営(いとなみ)の経(みち)です。真心という形無きものを、いかに実践するかーその真心が本物であればあるだけ、人々の感動を呼び起こし、社会に貢献でき、自分から発した豊かさがフィードバックされ、他者をも自己をも潤すのです。ですから、ビジョンが本物であったならば、理想論に終わるだけではなく、必ず現実面での経済性を伴うバランスあるものとなっていくでしょう。経営とは真心の純粋性の検証でもあるのです。
これからの時代の経営とは、真心の実践としての事業という位置づけになってくるのではないでしょうか。このような動機から生産物が供給されるならば、害や副作用が生じるものがこの世にでることはないはずです。万物は、与え、与えられ、生かし、生かしあって存在しています。たとえ毒のある木でさえも、マクロ的な視点からすれば全体にとって必要不可欠なものです。宇宙の存在の本質は自然の中に見て取ることが出来ます。また、経営の在り方も、自然の中に凝縮されています。経営理念や哲学も、本質的には人間の頭の中で考え出されるものでなく、自然の摂理、宇宙の本質の中にその方針が既に示されているものであると考えます。
経営とは、いのちの営みの経(みち)であり、何を営んでいくのかという問い直しや、常に真心に立ち返ることや、自然の中に方針を見ることなど、これらのことは誰かから言葉で学ぶと言うよりは、自らの心をよりどころとし、あるいは閃きとして与えられるものです。そのためには、心というセンサーが澄んでいなければなりません。経営者自らも自然の中にある森羅万象の響きから来るいのちの働きを大いに活かして頂きたいと思います。