水輪はサポート活動に参加するほうが実は色んな意味でずっと意義深く楽しいのである。
【水輪はサポート活動に参加するほうが実は色んな意味でずっと意義深く楽しいのである。】
水輪サポートハートリーダー関根さんより水輪体験記
水輪サポート活動感想文
2025年10月14日
関根健人
今回は祈りのご神事に合わせ、
10月2日~6日の5日間のサポート活動の参加。
朝イチで水輪に到着した時点で既に柿坂大宮司も
水輪に入られていて、開催日も間近に迫り、
全体的に緊張感のある中でのスタートとなった。
今回のご神事を思い起こすと、
まず湧き上がってくるのはいわゆる
という感覚だった。
最近、赤坂監督の『銀鏡神楽』という500年伝承の続く
ご神事の一連を撮った映画を見たが
(陰が極まり陽に転ずる冬至のその日に式一番から
式三十三番まで、夜通し休むことなくずっと神楽が舞われる)、
実際に神様をお迎えし、お祈りを捧げるために色々と
実際に自分たちで準備を進めるのは初めての作業だったため、
初めて知り学ぶことも非常に多かった。
結界を張る意味、御幣を下げる意味、
なぜ御幣があの稲妻のような形をしているか、
なぜ竹を使うのか、縄が左回りと右回りの螺旋構造に
なっているのはなぜか、
献饌を捧げる内容にはそれぞれどのような意味があるのか、
護摩焚きをするのはなぜか、一連の流れはどういう意味を
持っているのか、その儀式全体を通して何をしているのか、
ご神事の作法一つ一つを学ぶにつけ、
神様との関わり方、
その中で生かされている自分という存在の在り方みたいなものを
体感して腹落ちするように修得しているようだった。
普段神様を相手に日常的に仕事をされている方々と
あれだけ濃い時間を共にすると、どこか人間の、
日本人としての生き方みたいなものがそこかしこから
伝わってくるようで、
今の文明社会における日本人の生き方は
なんて神様から遠のいてしまっているのだろうと思った。
わかりやすく言えば、
「感謝すること」を
忘れてしまっている。
「これだけお金を払ったんだから、これぐらいしてもらって
当たり前だ」「頑張って働いているんだからご飯が食べれて
当然だ」「親がいるんだから愛情を注いでもらって当然だ」
「法律があるんだから守られて当然だ」
「空気が吸えて当然だ」「水があるのは当たり前だ」
こんな風に考えていて、
それが大自然から、もっと言うと奇跡的に
宇宙から恵みを
頂いているということがすっぽり頭から
抜け落ちてしまっている。神社に行くのだって
「受験に合格しますように」とか「事業がうまく
いきますように」とか「結婚相手が見つかりますように」
とか、お願いするばかりだし、
お祭りひとつ見たってただ縁日が出て、神輿が担がれて、
ワイワイ楽しむだけのイベントになってしまっている。
場合によっては「お金持ちになりたいなら〇〇神社に
絶対行くべき!」なんていう詐欺みたいな話も
平気で信じてしまっている。
単に知的教育の問題だけでなく、
こういった神(上)様との関りの中で自分という
内にあるもう一つのいのち(=真我)と向き合う
機会がほとんどなくなってしまっている所為も
かなり大きいと感じた。朝イチで神棚のお水を交換する理由や、
空間を常に清潔に保っておく理由、正月に門松(火土待)を
出す理由、神社の祭壇に鏡がある理由など、
私たちが何気なく接している慣習のやり方には
一つ一つちゃんと意味がある。
肝心のその形に込められた“心”の方がほとんど理解されて
いない(そもそも興味のない人も多そうだ)。
スマホから流れて来る映像がそんなに心を充実させてくれる
だろうか、高いお金を払って食べるA5ランクのステーキが
最高の食事だろうか、SNSで注目されることが
人生の幸福だろうか、ただ自分の時間を好きに使えることが
あるべきいのちの使い方だろうか、
一度立ち止まって、
考える必要があるのではなかろうか。
ご神事の準備をしながらずっとそんなようなことを考えていた。
それと印象的だったのは柿坂大宮司の
というお言葉だった。
10/3ご神事前日の白樺ガーデンにて、
祭壇の準備をしているときだった。
皆で地面をならしたり、献饌の位置を調整したりしているとき
に、椅子に座っておられた柿坂大宮司が飯縄山の頂上を
じっと見つめながらおもむろに語り出したのだ。
いつもと違う雰囲気で、
まさに「神が降りている」ような雰囲気で、小さい声なのにその場にいた全員が手を止めて
柿坂大宮司の方に身体を向け、膝をついてお話を聴いていた。
私たちがご神事の準備のために柿坂大宮司にあれこれ
細かいことを確認しているときであったから、
柿坂大宮司はもしかしたら私たちが正しいやり方に
こだわるあまり、
「大事なものが抜けてしまっている」と
思われて、そのお話をしてくださったのかもしれない。
自然と流れるべきようにことが流れていく」と
ゆっくりお話されて、
「惟神にやる」ことの意味を
訥々とご教授くださった。
私個人はこのお言葉の意味がとても深かったと思っていて、
表面的な、オペレーション的な視点で捉えれば、
全部が全部考えなしにやることはできないという
考えもあるが、恐らく柿坂大宮司がお伝えしたかったのは
そういうことではなく、もっと本質的な深い意味での
お言葉だったように思っている。
すなわち、ご神事に係るすべての“型”は別にそれが
絶対的に正しいというやり方なわけではなく
(伝統的で意義深いものであるとは思うが)、ご神事において
最も重要なことは
純粋無垢なまっさらな祈りが
そのまま神様にきちんと伝わるかどうか
(=穢れた邪のない自分と真正面から向き合えているかどうか)であるから、皆その心構えは準備できているか?
ということを柿坂大宮司はお伝えしたかったのではないかと
思っている。何かとその身に起こってくること、
目に入ってくること、耳に聞こえてくることに
心が持っていかれがちだが、その心は常にあるべき位置に
正しく座しているかどか、それを問われているような気が
したのだ。その場に一緒にいた工藤さんや飛田さんもど
う受け取ったのか、聞いてみたい。
来るよりも一緒になって準備をする方が学びも濃く
沢山あると強く確信するような機会となった。
2日目の講演でも述べたが、
ずっと意義深く楽しいのである。
